山桜がすっかり葉桜になって、若葉が次第に濃くなったころ後山を散策するとどこからともなく芳香が漂ってくる。頭上の木々を見上げると、大きな朴の葉の間から真っ白な花が見える。芳香はこの花が初夏の後山に放っているものである。後山には3本の朴の木が自生している。1本はひとかかえ以上ある太さで、それぞれの枝はまっすぐ天に向かって伸び、その先に花芽を付けている。樹高が20mほどあり、この木の花を鑑賞するのは難しい。残る2本のうち1本が斜面に自生しているため、比較的花を観賞しやすい。
山廬後山は標高が400m。蛇笏は山廬のことを「白雲去来するところ」と表現したが、それほどの深山では決してない。ごく普通の里山であるが、朴の木が自生するということはそれなりの環境であり、この時ばかりは蛇笏が表現した情景に感謝する。
このころの後山からの眺望は南アルプスの北岳を含む「白根三山」はもちろん黒沢岳、赤石岳はまだ雪に覆われている。里の新緑と白い朴の花の向こうにそびえる雪の峰の対比は自慢できる眺めの一つ。
ある年、斜面に自生した朴の見事な花をつけた枝を切り、玄関の大甕に活けたところ、あまりの香りの強さに些か閉口した。こうした香りは深山で感じるに限る。